映画あるいは本について

観たり読んだりしたものについて。ひどく個人的なことばかり書きます。

ぎりぎり合格への論文マニュアル

 

ぎりぎり合格への論文マニュアル (平凡社新書)

ぎりぎり合格への論文マニュアル (平凡社新書)

 

 「昔『サルでも描ける漫画教室』(略すと「サルまん」)というのがあったが、この本はさしずめ「ブタでもかける論文入門」(略すと「ブタ論」)である。」(p.12)

 

 俺がはじめて書いた論文らしき文章は、高校の社会科のレポートだった。

 題材はマッカーシズムで書いた。内容までは覚えてないけれど、どうせ高校生らしく、適当なことを書きなぐったんだろう。高校生は、何かを論じるのには若すぎて、だけど何かを論じずにはいられない年頃だ。

 数年後に待っていた、レポートに埋もれる生活など、そのときは想像できるはずもなかった。

 

 大学に入ってしばらくして、多くの文系学生がそうであるように、俺は大量のレポートを書かされるハメになった。読む習慣もなければ、書く習慣もない学生である。当然出来上がるのはレポートもどきのエッセイや感想文だった。

 そんなときに出会ったのがこの本だった。俺が受けていた芸術論の授業で、レポートを書くための参考書籍にあげられていたうちの一冊だったはず。

 以降、なんの間違いか購入してしまったその日から、俺がレポートを書く際に必ず手元に置く一冊になっている。気がつけばカバーはどっかにいって、もうぼろぼろになってしまった。

 

 本書はタイトルのとおり、「ぎりぎり合格」するための論文マニュアルである。

 このタイトルからわかるように、中身はろくでもない……と思いきや内容は相当硬派だ。軽快な語り口で綴られるその内容は、論文を書く上で大事なポイントをしっかりと抑えている(多分)。

「ある問題に対して、それが未解決の問題でなければ、何らかの解決が出されているのが普通でる。その問題について、受け入れられている解答に満足せず、可能性のある答えをすべて吟味して、その中から正しい、または最も蓋然性の高い回答を探し出すのが、論文的思考の一番大事な点だ。一日一歩、三日で三歩、一歩進んで二歩下がるの心意気である。」(p.30)

 

「勘違いする人が多いので、しつこく書いておく。論文を書くこととは、本を読んで、本の内容をまとめることではない。」(p.41)

 

「出典がなんであり、自分はそれに対して何を考えたか、つまり、出典の内容と、それに対する論者の考えが判然と分かれているようでないと、論文とはいえない。(中略)論文を書くとは、それがいかに学問的な装いをしていようと、己を書くことである。要するに、論文とは正装した文章だが、いつでもハダカになれる準備が必要なのだ。」(p.69)

 このように論文の心構えを述べた上で、優れた論文・ダメな論文を具体例を用いて示していく。著者が勤務していた大学での、クスッと笑えるエピソードも交えたその文章は、この本が論文のハウツー本であることなど、簡単に忘れさせてくれる。論文の心構えを俺にといてくれた本には何冊も出会ったけれど、こんなに笑いながら読めた本は、後にも先にもこれだけだ。電車の中で読むと、恥をかくことだけは保証できる。

 しかし、その本書の特徴であり、本書のいたるところに溢れいてる筆者のユーモアは、おそらく俺の文章力ではうまく伝わらないだろう。こればっかりは力量不足が悔やまれる。だけど、初めて読んだ時あまりにも笑ってしまったので、最後に簡単だが、その筆者のユーモアに溢れる文章を引用しておく。

「さて、ここで、論文を書き進める場合に、すぐ使うことができるフレーズを思いつくまま挙げてみる。自由に使って構わないフレーズである。ただし、この本がベストセラーになって〔その心配は不要だが〕、こういうフレーズが多用される論文があふれてきたら、そういう論文はあまり読みたくない。(中略)

・これまで指摘されてこなかったり誰も知らないことを、一見控えめに、しかしかえって目立つように表現したい場合

→「周知のように」〔実際に周知の事柄について「周知のように」と書いたらただのバカである。「周知の如く、太陽は朝に昇る」と書いたら大バカである〕」(p.184-185)

 

 この通り、ハウツー本としての有用性を保ちながらも、ユーモアと知性に溢れた文章だ。レポートに追われる学生だけではなく、読み物としてもおすすめできる一冊である。 

    他の論文のハウツー本は読んだことがないから、今後是非読んでみたい。具体的には清水幾太郎の著作にあたってみようと思う。

 

 俺は2月までに仕上げなければいけないレポートが2本ある。分量は2万字と6000字で、それほどたいしたことはないのだけれど、6000字のほうのレポートの資料集めに未だ難航している。胃が痛い。そのせいで先週は資料集めにかかりっきりだった。観たい映画がたまっているのに…

 レポートからの現実逃避に、手元にあった本について、ついうだうだと書いてしまった。何度も参照しているが、通して読み直したのは買ったとき以来かもしれない。

ユー・ガット・メール

 

 

ユー・ガット・メール 特別版 [DVD]

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「Eメールのやり取りって、大抵は意味のない会話だったりするけど、私にはそれがとても大切になってたの。ありがとう。」 

 だれにとってもそうであるように、高校時代の俺にとって、気になる異性とのメールは特別な出来事だった。
 俺は青春を男子校で過ごした。異性のいない高校生活は、別に灰色ってわけじゃない。だけど、カラフルってわけでもない。
 最寄駅が同じバカ共学の高校生を見るにつけ、口では偏差値が低いって馬鹿にしながら、心の中では妬みながら通学路を歩いたもんだった。

 つまり、高校時代の俺は女に飢えていた。

 そんな悶々とした日々に初めて彩りを与えてくれたのが、1年生の冬になって通い始めた塾で知り合った女だった。今思い返してみれば、大して可愛くもない女に俺は夢中になっていたように思う。相手の子が好きというよりは、恋愛をしている自分が好きだったのかもしれない。

 話が脇道に逸れてしまった。まあ要は、性欲にまみれたチンパンジー=その時の俺は、塾という名の出会い系サイトを有効活用して、人並みの青春を謳歌するのに必死だった。
 そんなチンパンジーだが、当然相手の子は違う学校だった。会えるのは週に一回きり。チンパンジーは飢える。そうして飢えに飢えたチンパンジーは、何を考えたか必死にメールを送った。

 「今なにしてる?」、「今日こんなことがあってさ〜」気分は平安貴族だった。不幸なことに中身は伴っていなかったが。相手とのコミュニケーション量を増やせば、それに比例して相手との距離も縮まるとでも考えていたんだろう。流石はチンパンジー、愚かである。もっともその愚かさに気づいたのは、相手の女の子に振られてからだったけれども。振られたショックで2キロやせた。

 書き出せばキリがない。まあ要するに気になる異性とのメールと聞くと、俺の中からほろ苦い思い出が、ドバドバと想起されるのである。
 
そんなほろ苦い思い出をかみ締めながら、この映画を観た。
 
 ジョー(トム・ハンクス)とキャスリーン(メグ・ライアン)はインターネットで知り合った。互いの顔は知らないけれど、メールのやり取りに夢中になっている。そんな時、キャスリーンが経営する本屋の近くに、ジョーが経営する大規模書店ができる。彼らは現実では喧嘩を繰り返しながら、メールではますます惹かれあっていく。そしてついにジョーはメールの相手の正体に気がつく……
 
 別にいまさら俺が講釈たれるまでもない、超有名作品だ。おそらく名作なんだろう。
 だけど今ひとつピンとこなかった。ジョーの発言からいちいち気持ち悪さみたいなものを感じてしまう。キャスリーンの婚約者の言い方も、そりゃないだろうって思ってしまった。俺が若いだけなのかな。大人の恋愛はわからない。
 
 それでも俺を最後まで画面にひきつけたのは、ジョーとキャスリーンのメールの文面だ。二人の美しい言葉は、スクリーンを鮮やかに彩る。

「ニューヨークの秋は最高、新学期の文房具を買いたくなる。住所と名前が分かれば、君に鉛筆の花束を贈りたい。」

 まだメールが手紙の延長線上にあった影響なんだろうか。今とは少し違った、どちらかというと手紙に近いテイストの文面だ。俺が高校生のときに送った下品なメールとは比べるのもおこがましい。なんだか羨ましいような、それでいて何故か懐かしいような気持ちになった。

 俺もこんなメールを送れていれば、少しは鮮やかな高校生活をおくれたのだろうか。そして俺はいつになったら、こんな上品なメールが送れるようになるんだろう。

ヨーロッパ思想入門

 

ヨーロッパ思想入門 (岩波ジュニア新書)

ヨーロッパ思想入門 (岩波ジュニア新書)

 

「ヨーロッパ思想は、本質的に、ギリシアの思想とヘブライの信仰という二つの基調音をめぐって展開される変奏曲である。」(p.150)

 『○○ 入門』とかいうタイトルを、俺は信用していない。ラッセルの『哲学入門』は、どれだけ学生の心を折れば気が済むんだろう。

 そもそも『○○入門』なんて本が書けるのは、その分野の大家だ。そのせいか、読者に求めるものが多すぎるきらいがある。

 「周知のとおりハイデガーは~」、「デカルトがこういったように~」

 しらねぇよバカ。そういうことがわかんねぇから恥を忍んで入門書よんでんだよバカ。

 安易に入門書に頼ろうとしてはいけませんよ、そう諭されている気分になる。

 

 だけど、この『ヨーロッパ思想入門』はよく読めた。あるいは読めた気がする。

 ヨーロッパ思想をすごく基本的な視点から、バカ丁寧に解説した一冊。さすがは岩波ジュニアとつくだけあって、その親切丁寧な解説は、他の入門書の追従を許さない。多少の前提知識は必要とされるけれども、それを差し引いても分かりやすい。

 

 本書の特徴は、そのバカ丁寧さにある。著者は冒頭で以下のように述べる。

「『ヨーロッパ思想入門』と銘打ったこの本で、筆者が意図したことは、ヨーロッパ思想の本質を語ることである。ヨーロッパ思想は二つの礎石の上に立っている。ギリシアとヘブライの信仰である。この二つの礎石があらゆるヨーロッパ思想の源泉であり、二〇〇〇年にわたって華麗な展開を遂げるヨーロッパの哲学は、これら二つの源泉の、あるいは深化発展であり、あるいはそれらに対する反逆であり、あるいはさまざまな形態におけるそれらの化合変容である。」(p.ⅲ)

 このとおり、ギリシアとヘブライの信仰がヨーロッパ思想の礎石だと述べる。そして、その礎石を全体の2/3を割いて、バカ丁寧に解説する。普通の入門書なら1行で済ませる内容を、わざわざ引用までして数ページにわたって説明する。おかげでするすると内容が頭に入ってくる。

 へぇギリシア人はこんなこと考えてたんだ、へぇ聖書にはこんなことが書いてあったんだ。そんなことを思いながらページをめくっているうちに、気がつけば西洋哲学を学ぶための土壌が出来ている。頭の中がクリアになる。他の入門書ではなかった感覚だった。

 本書の後半部分では、中世以降の西洋思想の歩みが述べられているが、これはオマケ程度に考えてもいいかもしれない。読みやすかった前半部分に比べると、教科書的記述に終始していて正直しんどかった(それでも普通の入門書よりは格段に読みやすいけど)。

 

 長々と書いてしまったけれど、ヨーロッパ思想の入門書を何か一冊と聞かれたら、俺ならこれをお勧めする。大きい書店じゃないと置いてないのが欠点かな……

 

以下気に入った箇所の引用

「人間は自らの知をたよりに行為する存在者であるが、その知は狭く暗い。したがって、自分が人生へ投げ込んだ意図の波紋を見通すことができない。人間の行為が思わざる致命的結果となって自分自身へ跳ね返ることは、人の知と力の有限性からいって必然なのである。神々とは、悲惨な結末によって、人間にその有限性を思い知らせる行為の状況の暗さ、世界の暗さ、存在の闇にほかならないであろう。」 (p.42)

 

「人間が自分に都合がいいように、自分の利益になるように、自分の気に合うような神の像を刻むことがここで禁止されている。しかし、そのような像を刻む性向を人間はもっている。なぜなら、人間は自分の願い事をかなえてくれる神を望むからである。」(p.98)

 

「律法の完全な遵守により正しい人間になろうと精進するとき、人はたえず人生のあらゆる局面で律法の定めを意識し、立法の細則を立て、自分の一挙手一投足がそれらの掟に外れていないかどうかを心配するようになる。そうすると、掟の遵守にとらわれるあまり、人間性の自然な発露を失う危険に陥るのである。」(p.144)